私が読む本は、新書やビジネス書が多く、小説はそれほど頻繁に読むわけではない。
有名な作家、たとえば東野圭吾や村上春樹、夏目漱石、三島由紀夫、川端康成、などの小説(文学)を、つまみつまみ読んでいる。
海外の名作は、あまり読まない。和訳の文調があまり好きではないのかもしれない。
最近は図書館でやっと手に入った又吉直樹の「火花」や、大学関連で知り合った友達がNoteにあげている小説などを、寝る前に少しずつ読んでいる。
小説(文学)にも様々なジャンル・作風があるが、ここでは日常的な場面、主人公を描いた小説をイメージしている。
小説(文学)ファンの人からすれば、私など完璧にニワカな存在だが、ここでは別に小説を評論する気はない。
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本題。
小説を読むと安心する。その理由は、人生が、ここまでちゃんと味わい深いものになりうることを、確認できるからだ。
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小説を閉じ、現実の生活に目を向けてみる。
このSNS時代、我々は他人と自分を比べる場面を多く持ちすぎているかもしれない。
自分よりも華やかな人、圧倒的な社会的地位やスキルを持っている人と、自分を比べる。
憧れることは悪いことではないが、焦りや劣等感を感じる人も多いだろう。
インターネットを駆使すれば、どんな人でも行動次第で輝けるようになったからこそ、逆に”成功”に向けて積極的に行動できていない、何もない自分を、価値のない劣った人間のように感じてしまう。
日々自分を追い詰める目の前の仕事。努力不足という言葉。市場価値という客観的な社会的評価。
「時間は作り出すもの」という正解らしい言葉の上で、日々ストイックになれるのかなれないのかよくわからないような日々を送っている。
それはまるで、
小説(自分の人生)の語り手(自分)として、まず登場人物(自分)の行動を描写する文を書き、次の文で、その行動を他の小説の登場人物と比較したりしながら批判することを何行も繰り返して、200ページの小説を埋めてゆくようなものだ。
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一方、我々が普段本屋で手にする200ページの小説の語り手は、登場人物の日常的な行動を一切否定しない。ありのまま描く。
レコードの流れるカフェで一服する、帰り道海沿いでウィスキーを飲む、部屋を掃除しながら外を見つめる、先輩と寮で会話する、仕事中もの思いにふける。
小説に描かれるそういった日常。
登場人物の人生の生産性、市場価値をほとんど否定しない。
他の小説の登場人物を引き合いに出して、そいつに勝った負けたを小説内で議論するようなことはしない。
どんなにスキルのない人物の、社会に対して何も産み出さないゆっくりとした時間も、れっきとした人生物語として読むことができる。
小説を読むと、そんな風に思うことができ、安心し、ほっとする。
もう一度小説を閉じ、しばらく待って、意識的に自分の人生の捉え方を見つめてみる。
その書き手(自分)はまた、登場人物の主人公(自分)を否定した文章中に散りばめている。
「こんな行動はダメだ」、「いい年して、人と比べて努力足りないし、価値ないよ」と書いているような。
いや、別にそういう小説もありなのだが、
単純に、そんな否定ばっかりの小説は、しょうもなくないか?と思ってしまう。
私は人生のなかで、そんな小説は書きたいないし、読みたくないのだ。
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弱いより強い方がいい。稼げないより、稼げる方がいい。
人生のそれなりの段階では、それなりに誇らしい経歴、スキルを持っていたい。
ただ、それらはたぶんオプションだ。欲しければ努力すればいい。
人間として人間らしく生きる上で、もっともっとその前提にあるものとは、
他でもない自分自身の人生の物語を慈しみ、そこに代えのきかない深淵な味わいを見つけることだろう。
焦らなくていい。自分の今は素晴らしい。しっかり、愛すべきものを大切にして、自分らしく、今を精一杯生きればいい。
よく言われている。そういうことなんだろう。
小説を読むと、もちろん内容にも感動させられるのだが、そういうことをふと考えてしまう。
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