「人と比べていたらいつまでも幸せになれない」という言葉はよく耳にするものだ。
他人の人生をうらやむことなく、自分の人生に集中して向き合うことができている人は素敵だ。 強くて、かっこいい。
そしてどうやら、そういう姿勢は、人として幸せに生きる上でほぼ絶対必要なようだ。
外からどう見られてきたのかはわからないが、私はことあるごとに他人と自分を比べて生きてきた人間の一人だ。
しかし、そうしていると永遠に、生きる上で最も大切と言っても過言ではない”自信”が持てないし、本来幸せになるべきタイミングでも色々マイナスなことを考えてしまっていた。
何とかしなければと思い、ここ最近、一度自分のなかで徹底的に整理してみた。
「人と自分を比べないで!あなたはあなたのままでいいの。」
というようなスローガンだけで、納得してまっすぐ生きていけるような性格ではなかった。
もう少し納得感のある理論を、どん場合でも迷わずに信じられる解釈を、探していた。
そういう経緯で色々考えた結論を、ここには書きたい。
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この稿では、
・まず、人と自分を比べること自体は悪いものではないことを述べ、
・それでもどうしても人と比べてみじめさや辛さを感じてしまう状況について整理する。
・そして、「自分でコントロールできないことも、コントロールできるはずののことも、実はすべては偶然の出会いやマッチングに左右されていることであり、仕方がないと」いう捉え方を提案する。
・最後に、どう生きれば幸せになれるのかについて、言及する。
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※なお、今回の「人と比べる」という言葉は、「人と比べて劣等感を感じる」という文脈のものです。
「人と比べて優越感に浸る」というケースについては、今回は触れませんでした。他者と比較して優越感/自己重要感を感じることは、(もちろんその思考パターンがもたらす様々な副次的事象については注意が必要ですが、) 別にそれ自体そんなに悪いことではないと思うのです。
人と比べることは、悪い癖なのか?
そもそも「人と自分を比べること」自体は悪いものではない、というところからこの話はスタートする。
人と比べることはむしろ、自分を成長させていく上で不可欠なことだろう。
他者を分析し、自分の現在位置を相対化することで、自分にはない素晴らしい価値観を取り入れることができる。
それによって、人生は豊かになり、いい方向に変わることができる。
「そんなにいい人生があったんだ」と気付くことは、大切なことだ。
もちろん、「いや、そんなことはしない。Just go my way. 俺は俺の道をただゆくだけだ。」というスタンスもある。
結局、他人を見ていて、「いいな、欲しいな。」と思ったものがあった時、それを本気で目指すも目指さないもあなた次第だ。他人をうらやむ気持ちが芽生えそうになっても、「俺にそれは必要ない」とスパッとふんぎりをつけられる生き方も、尊い。
しかし、他人を見て「いいな、欲しいな」と思い、心の琴線に触れたものに対して、正直に向き合うことで、自分が本当に求めているものに気付けたり、自分の価値観を整理し直したりすることができることも事実だろう。
そもそも、我々が普段とる「人と比べる」という行動は、自分の外側に自分を高められる何かを探そうとする、人間の生存本能ではないだろうか。
また、別の観点だが、一人格者として、一社会人として、独善的にならないためにも、自分の信じた道が本当に正しいのかを常に他人と比較しながら批判的に捉えることは、重要である。
私たちは、映画やら文学やらで、自分の生き方を押し切って破滅の道を歩んだ人の話は、よく目にしてきた。
大切なことは、よく自分の外にあったりするものだ。
人と比べ、辛い…と感じてしまう時
人と比べること自体は悪くない。
しかし、人と自分を比べた結果「不幸だ」と感じてしまっては、永遠に“きらきらした”人生を送ることができない。
(いい言葉が出てこなかったので、とりあえず “きらきらした” で形容した。)
人をうらやみ、そうなれていない自分を責めても、永遠に幸せになれない。
現実的に「他人になる」ことが絶対できない以上、これまでの自分/今の自分がどんなものであれ、今/そしてこれから他でもないその自分自身を動かし、自分の価値観を納得させる幸せを作り出す以外道はないのだ。
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しかし、しかしだ。
そうだと分かっていても、どうしても「不幸」だと感じてしまう場面があるのだ。
人と比べて、自分の人生にどこか納得のいかない気持ちに支配される場面が。
ひどい時は、「どうして私はそうなのだろう」と、絶望に暮れてしまう。
「今さら頑張ってもしんどいし、俺の人生はもうそれなりでいいや」と諦め、誇りを失う以外、解決策がないように感じてしまうこともある。
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ではどういった場面で決定的にそうなるのか?
それは
・本当に心の底から欲しいのに、自分には未来永劫手に入れられないものがあった時。
だ。
たとえば、遺伝に左右される顔・体型、持病の有無、生まれた家の家庭環境、親の資産、圧倒的な才能、など様々だ。
また、「これまでの人生で手にしておきたかったけど、手に入れられなかったもの」もそこに含まれる。
若い人をうらやみ、若い人と比較してしまう気持ちもそうだろう。仮にあなたが今20代後半だとするれば、自分の10代や20代前半は、未来永劫得られることはできない。
どれだけ心の底から手にいれたいと思っても、得られないのだ。自分の人生を最幸にするためのパーツとして絶対に必要と思えたとしても、手に入らないのだ。
たとえば、
映画や漫画のような学園生活。
もし今日がクリスマスであなたが一人で過ごすことになっているのなら、クリスマスを一緒に過ごす最愛の異性。
学生時代の留学経験。
もっと有効活用しておくべきだった、若い頃の自由な時間。
「天才高校生」「現役〇〇合格」、「〇〇大卒」「〇〇企業新卒入社」といった若い頃の華やかな経歴。
などだ。
そういったものを、他人の人生を見ていて、「心の底から欲しい」と思ってしまった時に、どうしようもなく辛く、不幸な気持ちになってしまうのではないだろうか。
最近ではSNSを通じて他人の人生を目にする機会が圧倒的に多く、そんなことは日常茶飯事だ。
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本当に心の底から欲しいのに、自分には未来永劫手に入れられないものがあるのには、次の二通りがある。
①”自分のせいではない”場合
②”自分のせい”の場合
だ。
次の節からは、そのそれぞれの場合について、「それは実は”仕方がない”ことで、不幸に感じる必要はない」ということを述べていきたい。
“自分のせいではない場合”:人生は大部分は、コントロールできないものに影響されているから。
人生のほとんどの要素は、自分ではコントロールできないことによって決められていることが多い。
この世界の人のあり方は、文字通り「十人十色」だが、その色を決めているの原因の多くは、偶然の要素だ。
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たとえば、自立した”自我”が芽生えるまでの、あらゆること。
たとえば、親の顔や体型といった、遺伝的要素。
親の年収、性格に色濃く影響を受ける家庭環境・教育方針。
小学校や中学校、習い事での、生徒や先生との偶然の出会い。
等々。
こういったものは、私達の毎日の生き方に大きな影響を与えている。
しかしそれらは、基本的にはコントロールできなかったものだ。
自我が芽生える前に、自分であれこれ賢く考えるなんてそうできない。
もし仮にそれができていたとしても、それは偶然あなたが手にした、親や先生の教育の結果だろう。
そういうものは、自分ではどうしようもない。
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突然あらわれる何かしらの重要な転機、経済や社会情勢の変化なども、コントロールできない。
青春の重要な1ページとなりうるはずの卒業式が、コロナウィルスで無くなってしまった。
大会やコンサートに向けて、あれだけ人生をかけて努力していたのに、コロナのせいでなくなってしまった。
地震や災害の影響で、やりたかったことに挑戦できない人生になってしまった。
等々。
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そういった状況も数えきれないほど存在する。
そして、そのすべてが、本当に悲しいものだ。
一度きりの人生で、特別アンラッキーな出来事により思い通りにいかなかったことは、よく考えれば考えるほど、運命を呪いたい気持ちになる。
しかし、それは絶対に、たとえビルゲイツが100億ドルを投資しても、Googleが人智を超えた最強のAIを開発したとしても、絶対に変えられないものだ。
だから、どこまで「仕方ない」と割り切ることができるかが大切である。
仕方がないから、受け入れていくしかない。
まず何がコントロールできないできないことだったのかを丁寧に整理し、それを受け入れることは、「食べなければ生きれないこと」や「寝なければ生きられない」ことと同じレベルの、人間に課された宿命であると考えている。
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ここまで読まれた方はこう思ったかもしれない。
「うん、たしかにそうだ。けど、それは普通の大人ならだいたい理解していることだ。」
「それでも私が人と比べて不幸に感じてしまっているのは、本来ならコントロールして変えられたはずのことを、”自分のせい”でコントロールできずに差がついた場合なんだと思う。」
なるほど、私もそう思う。
その点に関して、次節で述べたい。
“自分のせい”の場合:実は本当に比べて悲しくなっているのは、人間としての地力。
もしかしたら、私たちが人と自分を比べて一番みじめな気持ちになるのは、自分が自分をコントロールできなかったせいで、自分が今、他の人よいも“低い位置”にいると感じてしまった時かもしれない。
「もっとうまくやれていたのに」と思い、逆にうまくやれた結果、自分よりも“良い”現在位置にいる友達や知り合いを見て、人は自分と他人と比べて不幸感にさいなまれるのだろう。
・同じ状況で仕事をはじめたのに、自分よりも結果を出して上に上がっていく同期。
・過ごしているのは同じ24時間なのに、仕事もプライベートも充実している友達と、どちらも冴えない自分。
・自信をもって思い切って行動し、コツコツ結果を出した友達と、夢は持っていたけど、踏み出せず、ズルズル行ってしまった自分。
・努力不足、自分の”地頭”、”センスの無さ”のせいで、何も成し遂げられていない感覚。
そういう力のない自分を、世間で取り沙汰される成功者と比べて、辛くなる。焦る。みじめに感じ、自信と誇りが持てないてない。
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結論からいうと、そういう強さも、実は偶然の産物なのだと、私は考えている。
多分、努力できることも、頭を使って行動できることも、センスがあることも、時間を有効に使えることも、何かに夢中になれることも、すべてはこれまでの人生のなんらかのマッチングや偶然によってもたらされたものなのだ。
人が成長する過程には、①「気付く」②「その気付いたことが自分にとって重要だと認識し、実行する」という二つのステップがある。
私は、①と②の”気付い”たり“認識し”たりするタイミングは、自分でコントロールできないものだと考えている。
日々積み重なる人生のなかで、偶然もたらされるものなのだ。
なぜなら、当たり前だが、”気付い”たり“認識し”たりする前は、意図的に気付くことも、認識することもできないからだ。
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人間社会にはたぶん多くの“原則”が存在する。人は人生の色んなきっかけを通じて、その“原則”を学んでいくものだろう。
人生において大切なことに気付けたことも、偶然の産物なのである。
たとえば、家庭環境・教育が良かった。偶然いい師匠に出会えた。偶然いい本を読んだ。偶然始めた部活動の指導がすごく良かった。偶然見たテレビから、その時すごい影響を受けた。
といったような偶然のマッチングだ。
あなたのまわりにいる”すごい人”も、生まれた時から凄かった訳ではなく、家庭環境や教育環境、交友関係、生活環境、職場環境の中で、偶然早々とその”人間としての地力”を鍛えることができた結果ではないだろうか。
もちろん力をつけたのは本人の努力の賜物なわけだが、そもそもそういう努力する習慣、マインドセットも、彼が偶然人生の中で出会った何かが、与えてくれたものだ。それは人だったかもしれないし、本かもしれないし、映画かもしれないし、音楽かもしれない。
センスのいい/悪いもそうだ。きっとその人が生きてきた環境で偶然醸成されたものだろう。
もちろん、本屋に並ぶ自己啓発本を手にとれば色々書いているように、そういう偶然を起こすための方法/原則はたくさんある。
・どんな人にもオープンに接する。
・環境を選ぶ。
・本を読む。Web上の動画で世界を広げる。
・旅をする
・とにかく思いついたら行動してみる
など様々だ。
「だからそんな風に自分で行動を選べば、その偶然の確率を高められるから、結局本人の努力次第では?」
と思うかもしれない。
しかし、私の意見では、そうやって戦略的に自分が求めるものに向かって偶然を起こそうとできる人間力やマインドセットも、その人が、人生のどこかで偶然気付いて身につけたものではないだろか。
その人が失敗を繰り返して気付いのかもしれないし、偶然手にとった本に書いてあったことが偶然自分の中で定着したのかもしれない。
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だから、逆にいうと、人間社会の“原則”について親切に教えてもらって生きてきた人は、本当にラッキーだ。
“教育”の価値とはそういうところにあるのだろう。
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無知の状態でこの世に生を受けた人間は(本当にそうなのかに関しては哲学史の永遠のテーマだが、私はそう考えている。)、「気付き」「その気付きに対して、実際に行動するほどの重要性を感じる」ことでしか、人間としての地力を高められない。
そしてもしあなたが、自分は地頭が悪い、人よりも劣った人間なんだと感じてしまうようなことがあっても、それはあなたのせいではない。
多分あなたの人生で、そういう偶然が、起きてこなかっただけだ。
では、幸せになるためにできること
人は無知で、なんのスキルもなく、生まれてくる。(もう一度。諸説あるが、少なくとも私はそう思っている。)
だから「なんとなくこうなりたい」という願望があっても、簡単に叶えることはできない。
どこか今の自分が目指しているものと違うなと思ったら、その雑音・誤差を頼りに、人と比較することもしながら、コツコツ世界を広げ、歩みを進めていくしかない。
その過程で、やっと色々なことに気付き、認識することができるのだから。
ちまたで”継続すること”、”成功するまで諦めないこと”、”失敗しても何度も挑戦する”ことが、成功する上で大切だと言われているのは、そういう理由なのだろう。
そう考えれば、自己実現をするために必要な唯一の要素は、人生に対しての熱量なのかもしれない。
もちろん極論、その熱量も、人生の中で偶然にしか手に入らないものかもしれないが。
「自分には絶対できる」と信じ(これをコーチングの世界では”エフィカシー”と呼ぶことは最近知った)、心をオープンに保ちながらできる限りのことをしていくしかない。
とりあえず今に集中してできる限りのことをしていれば、あとは“果報は寝てまつ”だけ、というのが、昔から伝わる知恵なのだろう。
さいごに
上はすべて、私の現時点での解釈だ。
思想や立場によって、もちろん異なる意見は沢山あるだろ。
読んでくださった皆さんのご感想も、聞いてみたいと思う。
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実は私は茂木健一郎さんの隠れたファンだ。見た目が少しおじさんっぽいからあまり若い人に届いていないのかもしれないが、彼が色んなメディアで必死に伝えようとしている世界観は、個人的に昔からすごく好きだ。
この動画をシェアしたい。
この動画で語っている主題は、今日ここに書いた話と直接的には同じではない。
しかし、社会で目立った結果を残している人とそうでない人の違いが、偶然の出会いや色々な組み合わせでしかないという観点は、少しは繋がっているのではないだろうか。
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私は特にどこの宗教にも属していないが、通っていた中高は、カトリックの学校であった。
なのでキリスト教の考え方については、よく話を聞く機会があった。
キリスト教では、我々の人生に起こることすべてが、”神の意向”だと解釈する。
どんな困難も、どんな幸福も、神様が私達のために用意してくださったものだ、という考えだ。
それはきっと、今日述べた「あなたの人生は自分でコントロールできない偶然の要素ばかりで決まっている」というこの世界の性質を、神という存在を通して説明したものなのかもしれない。
人生とはそういうものなのだと、最近は考えている。
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